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「ぼちぼちと京都」エコラム執筆者トークセッション その2

トークセッション1部 「あなたにとって、つながりとはなんですか?」

 つながりのわかりにくい時代だといわれています。たとえば食べ物であれば、その食べ物がどこからやってきたのか?誰が作ってくれたのか?ごみにしても、捨てた後に、誰がかかわっているのか?どこにいっているのか?そんなことでさえ、わからなくなっているのではないでしょうか。一方で人のつながりもとても大事なものではないでしょうか。いろいろなつながりのなかで、これまでとは違う持続可能な新しい生き方があるのではないかと思います。
これまでとは違う生き方をしていらっしゃるパネリストの方々に、「いまどうしてそんなことをしているのか」ということをお話いただきながら、一緒に人と人のつながりについても考えました。

 

●仲間がいたから頑張れた(蒲田さん)
 いろいろあって、与謝野町にもどってきたわけなんですが、「親が子に何ができるのか?」
ということが最初のきっかけだったのではないかと思います。天ぷら油の回収は最初に話した阿蘇海をキレイにすることにもつながるということで、始めました。天ぷら油回収は、その時は誰もやっていなかったし、誰もやっていないことだったら、プロがいるわけではない。自分でもできるはずだというのがあったと思います。
 20年地元を離れていたのですが、そうなると完全によそ者なんですね。「よそ者が帰ってきてなんかしとる」と、周りは思っていたんじゃないかなぁと思います。最初、回収をはじめたときは、協力してくれる人もいなくて、全然集らなかった。でも、そこでやめてしまったら「なんやようわからんことしとったけど、失敗しよった」と思われて、おしまい。だから本当に頑張りました。だんだん仲間がふえて、今の回収の形を作っていったなかで、いろんな人や団体、婦人会の方々にも助けられました。

 

●先人ともいま森羅万象とも後世ともつながっているということ(塩見さん)
 僕の母は42歳で他界しました。当時、僕は小学4年、10歳でした。特に20~30代のころ、僕は「42歳でも逝ってもいいように生きよう」と思ってきました。人生80年時代ですが、人生にも〆切りが必要だと思います。僕にとっては、33歳と42歳、2つの〆切があったのです。33歳というのは、在野の思想家、内村鑑三さんが箱根で「後世への最大遺物」という講演をした年齢です。いまから115年ほど前の1894年におこなったときの講演録が岩波文庫になっています。28歳のとき、この本を読み、影響を受けました。内村は聴衆にこう訴えました。「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か」と。28歳の僕にとって、33歳でこんな講演を100年以上前にされたことがショックで、僕も33歳で人生を再出発しようとそのとき思ったのです。後の世、後世、将来世代に何を残すか。いまから15~20年前から僕はそんなことを意識するようになり、負の遺産を残さず、与えられた役割を世に活かし、よりよい世界にするためにどういきるか、悩む中で半農半Xというコンセプトが生まれたのです。見えない未来の世代ともつながれたらいいですね。

 僕はいま半農半X研究所という屋号で活動しています。自営業ということになりますので、自分の仕事やライフスタイルを自分でコントロールできます。この8年ほど、夜9時に寝て、朝3時に起きる生活をしています。朝の3時から6時までは、ゆっくり考える時間としています。ゆっくり考える時間をたくさんもつ必要があって、「感じる時間」「考える時間」がいま世界には必要なのだと感じています。つながるのは他者だけでなく、自分自身とのつながりというのもありますね。意外とこれが切れているのかも。

 綾部では冬は雪が降ったりするので、農は少しお休みです。これからの農繁期になると、僕は日焼けをし、痩せて体重も減っていきます。自給用のお米や野菜をつくっていくのですが、自然とのつながりも実感していきます。田んぼを舞うトンボも水面のカエルも愛おしくなります。小さな農はいろいろなことを、やさしいこころを思い出させてくれます。

 フェリシモという会社はたいへんいい会社でした。会社に残り、仕事を通じて社会変革も可能だったのかもしれません。そんな選択肢もあったと思うのですが、自分の人生の行き先を、自分でコントロールしたい思いもありました。フェリシモ在職中は、いろんな方に会いました。「学び貯金」もありました。その学び貯金でいま食べているのかもしれません。すべてに感謝ですね。

 

 

●しがらみから開放されて行った田舎で、新たなつながり(上世屋・坂田さん)
 なぜ田舎に行ったかというのは、私の姉が以前から上世屋に引っ越してお世話になっていたこともあり、年金生活でこれまでの生活の質を落とさずにするにはと考え、街での生活は難しく、田舎生活を選びました。今は持家ですが引っ越した当初は家を借りていました。一番はやはり家賃が安いということでしょうか。お家賃を「年貢」って言うんですが、1月の末にだいたいお家賃を払うんです。で、友だちは「家賃いくら?」と聞くんですが、「3万円なんよ」って言うと、「田舎でも3万円するんやね。家が大きいし」とか言っていて。本当は1年間で3万円なんですが、友だちには言っていません。ガレージ借りても、年貢で5,000円。今まで住んでた所とゼロの数が違いますね、それだから住めるんです。でも、この7年間で少しは家賃も上っているようです。

 上世屋の集落は、22人ほどで、限界集落にも近い感じです。エコラムを見てもらった人は分かるんですけれども、わが家の玄関先にしょっちゅう野菜を置いていただいているのですが、今年やっと畳4枚の畑をつくりました。それも、わざわざ土を買ってまで、自分の家の庭につくったんです。「なんでそんなことすんの。畑借りたらいくらでももういい土のとこあるのに」って言われたんですけれども、みなさんの畑はすごくきれいなので、通った時に比べられたら恥ずかしいし、虫がついていると迷惑かけるし…。だから、自分の庭やったら草ボウボウでも迷惑かけへんと思って。

 人とのつきあいは、先ほどもありましたように、世屋の女性加工グループをしておりましたら、やはりほかの集落の人たちとの関わりが少しずつできてきました。86歳のおばあちゃんと一緒にお餅をつくったりするのが、いちばん楽しいですね。自分の母親に近い人とお餅をつくったり、お話をしたりするっていうのが、それだけでほんとに喜んでいただけて楽しいです。お子様と一緒におられない人がほとんどで、おひとりで住んでおられる方もたくさんおられますので、そういう人たちと交流をもつっていうのが、上世屋に来てからの楽しみですね。先ほどの粟をね、つくっておられるのも86歳の方です。「今年も一緒につくろうね」って言ってくださっています。粟もちをつくって、売ったりしています。

 あと、以前からの関わりの人にはこれまでのお礼とともに、「ひっそりした田舎生活を送るため、今後年賀状等は出しません、もう通信を途絶えます」とこちらに来た時に葉書を出しました。私も、主人に習ってそういうお手紙を出しました。けど、はじめはインターネットをつないでいましたので、ちょっと懐かしくなってメールを送ったりはしていましたけど、もうそれもやめました。たまに来た葉書や手紙に返事を書くことにしていますけど、今はインターネットもつないでいません。とはいえ、どんな田舎生活をしているのかなと、懐かしさとともに知人が来てくれると、こちらもやはり懐かしいですね。

 

●心地いいしがらみがあるところでは、アクションを起こせる(蒲田さん)
 今言わはったように今までのしがらみが嫌で、ぽっと山行ってそれから生活してると、今度そこの地域の人と必ず連携が絶対出てきますよね。でも、好きで行っているから、好きな人との関わりは、すごく心地いいんですよね。でも、嫌なところで関わってくるとどんどんどんどんストレスになってきて、そこから逃げたいってなるんですね。結局、環境でも一つの出会いでも、分かる人とか目指しているところが一緒だから、しがらみがあったり出会いがあったりしても、意見交換会みたいなんができるんで、たぶん、そういうのは居心地がいいんだろうなあと思いますね。これが経済の話になってきたり、利益を誰が儲けるとかになってくると、そろばんはじいてきたりして、摩擦とか我が我がってなるんですけど。なので、心地いいつながりがあるところでは、自由に生きられるっていうか、ひらめいたらそこにアクションを起こせるとか、そういったものが結構持続可能なんかなあと思います。それは、一つのキーワードとしてあるんじゃないかな。
 共通点を見つけて自分からそういうとこへ飛び込んでいくとか、飛び込んだらなんか結構心地よかったとかいう部分が、やっぱり結果としてあとから付いてくるんかなあと思いますね。

 

●つながっているあらゆるものに生かされている(隅岡さん)
 私も、先ほど塩見さんのおっしゃった考える時期があったから、今につながっていると思います。その考えた時期っていうのが、ちょうど中学校2年の終わりぐらい。中学生って違う子をいじめたくなったりする年齢だと思うんですが、ちょうどまあ私も、自分では変わってないと思うんですけど、変わっていたのか、みんなと一緒になれなかった。それで、ひとりで過ごす時間が多かったんですね。それが、今につながるんですけども、その時期は、「生きるってなんなんだろう」「生まれてきた意味ってなんなんだろう」っていうことを考えていました。そして、「生きることは生かされているということかな」っていうことに気づけたんです。それは親とか、人とかに、目に見えるかたちとして生かされているってこともあるんですけども、なんかこう、もっと大きなものによって生かされている。いまこの地球に私は生まれてきているんだから、地球が元気になる生き方をしたいって思ったんですね。

 私の母校でもある京都造形芸術大学のすぐ近くに、プリンツっていうカフェ・ギャラリーがあります。父が作家で父の写真も展示されていた関係で知っていたのですが、ギャラリーが中心ですが、カフェ・スペースが少しあるので、そこで働いてみないかって声をかけていただいたのです。昔から料理がすごく好きだったんです。育ったのが静原なので、遊ぶことっていったら料理をしたり、山行って基地をつくったり。(笑)川で魚獲って、子どもなので残酷なこともしながら遊んで。(笑)まあ、そういうなかで育ったので、おもちゃというよりか、料理をしたりして過ごしてきていました。あと、父がアーティストで、家が田舎にあるので、街のアーティストの仲間が週末に集まってパーティーをしたりしました。そういうときに、料理をふるまうとみんなおいしいと言ってくれて、そこで喜びをみんなにいただいていました。そういう「喜んでもらうこと」が、いまの仕事につながっていると思います。
 大学では染織テキスタイルっていう、いまの仕事には関係のないコースでした。就職活動のときも、大学で学んでいることをしようという気はなくて、とりあえず好きな料理をつくって、地球とつながっているようなことをやりたいと思っていました。そういう時に、そのカフェをタイミングよく任せてもらえるようになったんです。

 私も、人やいろんなものと出会ってきました。今では結構、エコフェスタなどありますが、ちょうど10年前ぐらいは、エコフェスタって言ってもほんとに限られた人たちしか来ないようなお祭りだったんです。環境のこととか、地球のこととかを愛している人たちが集まるようなお祭りに声をかけてもらって、ケーキをつくって売ったりして、そういうなかで、いろんな人の生き方を見させてもらって、今に至っています。
 なので、ここに来て何がお話できるかって言ったら、誰も特別な人間はいなくって、みんなそれぞれがこの地球に生まれてきて、いま存在しているっていうことはみんな一緒だということです。だから、悩んでどうしようって思っている人はいまがチャンスだと思います。悩めるっていうことは、きっとメッセージを与えてくださっていると思うんですよ。

 目に見えない力はあって、それは自然のなかに備わっています。今日新月なんですよね。昔の暦っていうのは新月とか満月とかでつくられていて、日本人はお米をつくる民族なんだけど、お米をつくるときにこの暦を大事にしていました。作物をつくることによって命を育てる、結局命もすべてがつながって生かされているってことを、知っていました。大地の中で日本人は感じていました。そのすばらしい国に、私たちは生まれてきているんです。そこは、みんな一緒だと思うので、そこにみんな気づいたら、たぶんやれることって人それぞれ違うけど、たぶん目指すところが一緒なのではないのかなって。今日お集まりになられた方は、きっとなにかそういうものを感じておられる方々なのかなって思います。
目に見えないものが存在しているってことは、感じてしまうことで、私から伝えられることはそれなのかな、と思っています。

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